茶文化録
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 中国は茶の故郷であり、お茶が人々の口に入ったのは、神話上では紀元前二七○○年頃までに遡 るそうで、これは世界最古とされるお茶の神様「陸羽」の著書「茶経」にも記されています。神話の中に「神農」が出来きましたね。そして、神農が茶葉を使ったような記録もありました。
 ここまではもう何度も読みました。どの本にも書いてありました。お茶は四千年の歴史があると色々な参考書に載っています。しかし、四千年の中国茶歴史イコール四千年の飲茶歴史ではありません。

 お茶は最初は飲用として使われたのではなく、食用、薬用、祭品として用いたようです。
 お茶が薬用、祭品用から飲用になったのは何時の時代でしょうか?

 文献として残った史料は、清代の「顧炎武」の「日知録」「唐韻正」で は飲茶は戦国末に始まったと書いてありますが、説得力が欠けているとも されています。西漢の「王褒」という人が記された「僮約」の中に「トウ」(TU)という字(下を参照)が後の「茶」だと多くの学者が説いています。「僮約」(僮約は文字通り、主人と下僕との間に交わされた誓約書の事)は公元前59年の物なので、中国茶の飲用歴史は2千年になります。つまり、4千年の歴史がありましたが、飲まれたのは2千年です。

 当然、最初から今のような 便利な茶藝道具もなければ、茶葉の種類も多くありません。 その2千年の飲茶歴史は4つに分けて説明する事ができます。一つは漢魏六朝、二つ目は隋唐(殆ど唐という時代だけ)という非常に重要な時代、 三つ目は五代宋、そして最後は元明清です。中国茶経では「發乎神農、聞之魯周公、興於唐朝、盛在宋代」と非常に分かりやすく、簡潔に書いてあります。唐という時代から普及しはじめ、宋という時代で更に盛んになり明で今日の基礎が出来上がったと言われています。
茶と言われる文字
神農
神話中の神農像

■漢魏六朝 「自泰人取蜀後、始有茗飲之事」は「日知録」の中にあり、巴蜀は中国茶業と茶文化の発祥地(揺りかご)である唱えに諸学者の間、殆ど議論が ないようです。しかし巴蜀の飲茶事情は「史前」であったり、「西周初年」 であったり、「戦国時期」であったりします。だけど西漢という時代、四川の成都は中国茶の中心地であり、流通 経路であった事は間違いないようです。私の大好きな「三国志」の中に「以茶当酒」という場面 もありました。本当は「煮酒論英雄」という内容を「煮茶論英雄」にして欲しかった(笑)。

 漢魏六朝の飲茶は「煮茶」とありましたが、鼎(かなえ)、釜などで煮て、 食事用のお碗で飲んでいたようです。煮茶、飲茶専用の茶器(茶具)はその時代にはまだなかったというのが、一般的の見解です。 本格的に煮茶、飲茶専用の茶器(茶具)でお茶を楽しむのはのちの唐の時代からだ言われています。それ以前の道具は食事用のお碗を使ったり、お酒で使っていた物を用いたり、「共用」と言う説もありました。ただ、隋唐以前に茶碗があったという史料記載もあったりしますので、部分的な茶道具は既に生まれたという主張も注目したい。

■隋唐  隋が短かった為、中国茶に関する記載が殆どありません。しかし、唐、特に中期の唐において中国茶が飛躍的な発展を遂げたと言えましょう。お茶は「興於唐、盛於唐」という説です。「茶始有字、茶始作書、茶始辺銷、茶始収税」がそれを分かりやすくまとめています。

  唐の時代のお茶は「団茶」中心で、散茶も少ないが記載に見る事ができました。陸羽の「茶経」の「六之飲」の中で「飲有(牛+角)茶、散茶、末茶、餅茶者」という記載があり、唐の時代に粗茶、散茶、抹茶と団餅茶の4種類がありました。製法は「蒸青」がメインですが、この時代の詩人&政治家である「劉禹錫」という人は「西山蘭若試茶歌」の中で「斯須炒成満室香」という詩から見て分かるように、茶葉を炒めた製法がありました。

 また、この時代の「蠻書」の中で「茶生銀生城界諸山、散収無采造法.....」、更に清の「普耳茶記」の中で「西蕃之用普茶、己自唐時」とも書かれてありますので、唐という時代に既に雲南茶が登場したようです。

 お茶の神様である陸羽もこの時代の人間で、「煎茶法」が陸羽によって考案された新しい楽しみ方です。それと対照的に「煮茶法」と「泡茶法」がありました。 餅茶を朱色になるまで炙り、それから砕き、釜に入れ水を出し、そして姜、葱や柑などを加える飲み方でした。
 陸羽はこの飲み方はお茶の本来の味が分からず、排水溝の廃水と変わらないと、激しく批判しました。対して、陸羽が考え出された「煎茶法」は水が沸いた時に少しの塩を加えるか、全く入れないかのシンプル法です。 陸羽の煎茶は水を沸かしてから粉末を投入し、かき混ぜながら3度目の沸騰時に止めましたが、煮茶は沸騰湯に入れたり、冷水状態時に入れて一緒 に煮るの2つの方法でした。

 茶具も煎茶は風炉、碾、羅、瓢、碗など24件あり、水に対しても「山水上、江水中、井水下」といって、大変な拘りを見せています。お茶が広 まると共に、様々な茶器も生まれました。そして、そして最も注目すべき 所は「貢茶」という言葉です。最も、「貢茶」は唐の時代以前に既にありました。隋の文帝が病気時に、浙江天台山の智蔵お坊さんが天台茶を献上した記録がありました。ただ、皇帝に献上する為のお茶を造る「貢茶院」 ができたのは唐という時代でした。その量も半端の物ではありません。最も多い記録は三十万斤という記録があり、なんとその時代の貢茶リストの中に「霍山黄芽」と「常州陽羨」がありました。
  
お茶の神様:陸羽2
  
お茶の神様:陸羽像(陸羽に関する資料はこちらへどうぞ)

 以茶易馬、茶馬交易:辺疆の少数民族とのお茶と馬の交換についての記録もありました。古代、馬は国防力の基本だと言われています。戦争に勝つ為にいかにたくさんの名馬を確保できるかにかかっているそうです。

 秦の始皇帝の時から既に遊牧集団の匈奴の侵略に悩まされていました。匈奴は優れた騎馬技術と武器により、秦はもちろん、その後の漢も攻め、漢は匈奴に対抗できる力を持たず、漢武帝の時代まで匈奴に対して献上品を送るなど低姿勢に徹していました。しかし漢武帝が帝位につくと、張騫を西域に出し、名馬の重要性を痛感、また衛青と霍去病という二人の卓越した将軍によって、積極的に匈奴を討つ為に動き出しました。

 肉食中心の遊牧民達は、長期に渡る肉類の摂取でビタミンCなどの欠乏を防ぐ為に、お茶が欠かせません。野菜が食べれない分をお茶で補う考えでした。よって、供給側から見れば、お茶は周辺の遊牧民を牽制する有効な手段です。前述したように、中国は有史以来、国の安全はずっと北の遊牧民に脅かされて来ました。

 だからこそ、戦略物資であるお茶を厳重に管理し、唐粛宗の時から既に行われ、北宋になると「辺茶」を専門的に管理する「茶司馬」という機構が設立されました。

 *1000の名馬で陸羽の「茶経」と交換して欲しいと申し出が唐の時代にあったのを見れば、お茶、いや「茶経」はいかに注目を集めた本であった事はよく分かります。

 お茶に税金(茶税): お茶に税金がかかったのは建中三年(公元782年)と記録され、国家の収入として固定を決まったのは徳宗貞元九年(793年)でした。税率は10パーセントだった。その後、20パーセントまで上がった記録も見ることが出来ました。

 お茶の本: 世界最古のお茶に関する本:陸羽の「茶経」もこの時代に出来た物です。陸羽は「茶経」のほかに、「茶記」、「水品」などの本も書かれました。また陸羽の「茶経」以外に唐代のお茶に関する本は「煎茶水記」、「採茶録」「十六湯品」、「茶訣」などがあります。
古代の茶道具

24器
 
 上の24件は唐の時代に使われた茶道具(備器)で、現代の中国茶藝や日本茶道で依然存在する物もあれば、必要なくなった物や別の道具に取って代わった物もあります。
 まず、風炉は今も使われています。2は竹で出来た采茶用の物で、3は炭を砕く鉄器、4は鋏みで炭を風炉に入れる時に使用する物、5の釜は鐡、陶器や石で出来た物もあれば、貴族達は銀の茶釜を使って身分表現されたとか。6は木製で茶釜置き、7は炙ったお茶を入れ、香りを逃がさない為に使用されたようです。8はお茶を碾(くだ)く道具で、9の羅はお茶の篩(ふるい)で、合はお茶を貯めるに使う物、10はスプーンのような物で、今の茶則と言えよう。11は生水を貯める物で、12は竹、木や銅で出来た濾す道具、13は木製の柄杓(ひしゃく)、瓢(ひさご)です。水を釜に入れる時に使います。14は多分かき混ぜる時に使う竹棒?想像つかなくてごめんなさい。15は塩を貯める器と取り出し時に使う物。唐の時代にお茶を煎れる時、塩を使う場合が多いので、この道具が存在しました、16は熱湯を溜める物で、三回目の沸騰時にこのお湯を釜に出していくそうです。17はお椀です。お茶を味わう時に欠かせない最も基本的な道具で、越瓷、鼎州瓷、岳州瓷、壽州瓷、洪州瓷などがあったようで、越瓷が一番高級とされる。18はお茶を入れる道具。19は茶具を掃除する物で、20は水を貯めて茶具を洗う物、21は今の水盂(建水)に該当する物で渣集めの道具、22は巾で、茶具を拭いたり溢れた水を拭いたりするに使う物。23は茶具を陳列する棚、現代も使われている物。24は茶道具一式を収蔵する時に使い、使う時に出す便利物。
 以上は昔の人々が使っていました茶道具(備器)の説明で、間違った所があれば遠慮なく指摘して下さいませ。

 
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